2022年3月16日
更新日:2022年8月8日
「毎日行けない・・・やるからにはきちっと職務を全うしなければ」
真面目な自分が顔を出して、2足の草鞋を良しとしない。良しとしないというより日々の仕事に妥協したくないのかもしれない・・・と思っていた。
だが、自分はこの年齢になるまで本職に従事しながら他の事を沢山やっていた。
県サッカー協会や日本サッカー協会業務、チェントクオーレハリマの手伝いなど等。
何足も履いているではないか、草鞋を!
何足履いていたのか?・・・少し自分のやってきたことの振り返り
プレーをしていた学生時代からずっとサッカーが日々の基軸を成し、「土日に休みはない」・・・これが当たり前であり、何も疑問をもっていなかった。サッカーに関わってきた人の多くはそんな生活を送っている。何も自分だけではない。そう思っていた、なぜなら試合は土日にあるから。プレーヤーのときは純粋に楽しんで純粋に喜んで笑っていた。しかしサッカーが生業(なりわい)になってくるとそうはいかない。まじめな一面はこのころから根を生やしたのかもしれない。
大学卒業後の4月に日本で最初の法人格を持った社団法人神戸フットボールクラブ(以下神戸FC)に技術職員という型で奉職。指導者をやりながら同時にプレーヤーもこなしていた若いころの自分だが、実は29歳まではプレーヤーの優先順位のほうが高い生活をしていた。当時の神戸FCはクラブトップチームを日本最高峰の “日本サッカーリーグ1部”に昇格させるという大きな目標を掲げていた。今でいうJ1リーグ。読売クラブ(現東京ヴェルディ:1970年代よりトップチームからスクールまであらゆる年代のチームを保有し、理想的なサッカークラブを形成していた)を目標とし、3歳から80歳オーバーの選手(会員)が在籍。老若男女・初心者から経験者まで、多種多彩な選手とチーム(レベル別・年齢別)が揃い、国内でも有数の歴史と規模を持つ会員制サッカークラブである。神戸FCの歴史は日本サッカーの歴史という人もいるくらい。最大時で会員数は総勢1,500名強。「ゆりかごから墓場まで」を地でいくような、それは大きなクラブだ。震災の影響や多くのサッカーチームの出現により現在ではそこまで多くの会員は在籍していないと聞くがそれでも日本有数の会員数を誇っているのは間違いない。
その神戸FCに1986年~94年までの9年間在籍していた。クラブの前述の目標達成のためにプレーヤー兼有望な大卒選手の獲得に奔走し、同時に3歳~年長、3~6年生男子強化チーム、中学生男子ジュニアユース、高校生男子ユース、そして中高生年代女子で構成するレディーズ等の選手育成・強化・指導を兼務していた。9:30出勤・事務作業、15:00~グラウンドでの指導、19:30~自分の練習、終了後~事務所にて残務、帰宅は23:00前後。そんな生活を繰り返しながらも兵庫県サッカーリーグ(社会人)事務局と全日本少年大会神戸市予選事務局の両方を兼務。担当チームの試合に両方行けるように試合日程作成担当を担っていた。後に神戸市サッカー協会技術委員長職を10年、クラブユース連盟事務局・理事長職を17年、国体・県トレセン指導と県技術委員会委員職を30年・・・もう何をいつ始めたのかも定かではなく、・・・今考えれば信じられないスケジュールをこなしていた。
自分も若かった!としか言いようがない。
1995年1月17日、神戸では震災が起こる。その日、ヴィッセル神戸トップチームは岡山・倉敷から神戸に移動して、本格的な移転・活動を始める予定だった。しかし岡山から神戸に近づくにつれ、震災でサッカーどころではない状況を目の当たりにしたチームは一旦倉敷に戻った。予定通りスタートするJFL(日本フットボールリーグ)のためすぐさま倉敷でトレーニングを開始するため。
リーグに参戦・・・そういったトップチームの傍らで、実は下部組織も動き始めていた。
ヴィッセル神戸が発足する前年の1994年、当時の筆頭スポンサーでもあったダイエーのポートアイランド事務所にヴィッセル神戸本社が構えられた。そしてJリーグ規定となる下部組織保有の問題をクリアにするため、神戸FCのユースとジュニアユースがヴィッセル神戸のユース・ジュニアユースとして移管されることとなった。なぜ神戸FCであったのか?それは分からない。どこかの上層部で決定されたのだろう。自分も未だに聞かされたことはない。同時に当時の神戸FCユース監督とジュニアユース監督の二人はそのまま神戸FCからヴィッセル神戸へ出向という型で指導を継続することになった。
神戸にプロができることを想像もしていなかったうえに、たまたま神戸FCジュニアユースを指導していた自分がプロチームに関わるようになる・・・考える余地もなく、自分の意思でも無いなにかが背中を押し、否応なしに巻き込まれていったといったほうが正しいかもしれない。しかし不思議と怖いとか不安とかそんな感情はなかった・・・やるしかないと。
それからというものの、ユース監督である自分のボスと定期的に本社を訪れ、ユニフォームデザインや下部組織の編成・運営方法など打ち合わせを始めることになっていった。
31歳の頃である。
次回に続く・・・
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